今日は何の日:1957年7月17日、毛沢東による「青島会議」の招集
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- 7月17日
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【出来事】
1957年7月17日、中国共産党の最高指導者である毛沢東主席は、山東省青島(チンタオ)において、各省・市・自治区の党委員会書記などを集めた「青島会議」を招集した。同会議は7月21日まで開催され、この席上で毛沢東は、のちに党内および全国に配布されることになる重要文書「一九五七年夏の形勢」を起草・提示した。
この会議に至る前段階として、1950年代半ばの中国共産党は、急進的な社会主義建設(第一次五カ年計画など)を推進する上で、高度な教育を受けた科学者、技術者、学者といった知識人層の自発的な協力と党への参画が不可欠であるという課題に直面していた。知識人を党に引き入れ、その生産性と専門性を引き出すための懐柔策として、1956年から提唱されたのが「百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」運動であった。
党指導部は「たとえ党に対する批判が含まれようとも、多様な意見の表明を歓迎する」として自由な言論を促した。しかし、1957年春に本格化したこの運動において、知識人たちから噴出したのは、単なる建設的な提案にとどまらず、党の特権階級化や一党独裁の根幹に対する峻烈な批判であった。予想を超える批判の連鎖に危機感を募らせた党指導部は、わずか数ヶ月で方針を急転換。6月上旬には批判的な知識人らを「右派分子」とみなして排除する「反右派闘争」が開始された。
7月17日に招集された青島会議は、この反右派闘争の基本方針と動員計画を党地方幹部に徹底し、闘争を全国規模へ拡大・本格化させるための決定的な節目となった。毛沢東が会議で示した「一九五七年夏の形勢」では、自らが求めたはずの批判運動を一転して「狂暴な攻勢」と位置づけ、これに対抗する運動を「政治および思想戦線における階級闘争」であると定義した。
この決定を経て反右派闘争は過激化し、最終的に約55万人にのぼる知識人や技術者らが「右派分子」として公職追放や強制労働(労働改造)などの制裁を受けた。この組織的な言論弾圧の結果、中国国内の言論空間から自由な議論や党への直言は徹底的に排除され、知識人層は沈黙を余儀なくされた。客観的な批判や科学的な忠告を行うブレーキを失った組織は、翌1958年から始まる「大躍進政策」の壊滅的な暴走を止められず、のちの「文化大革命」へと至るさらなる独裁の先鋭化を決定づけることとなった。

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